ビジネス書・啓発書の無駄さ

2017年6月23日

diary

「自分で目標の天井を作らない」――カルビーのヒット商品を支えるリーダー、網干氏の仕事哲学とは?【後編】(IT Mediaビジネス OnLine)

まあ、まずは読んでみて欲しいのです。
そして読んでみた感想はいかがでしょうか。
「やはりビジネスリーダーになる人は哲学を持っている」
これが一番多い感想ではないかと思われます。
あるいは、
「思考のパラダイムシフトは重要だ」
とか、
「既存の概念や常識を打ち破る人材でなければならない」
でしょうかね。

私の感想は、
「何の役にも立たない記事だった」
です。

誰もがやっていることでしかないのでは

前年比150%増の売上を記録し続けたことは凄いのかも知れないが、規模こそ違っても自らの営業ノルマを前年比200%増・4年間継続した私から言わせれば「そんな程度か」でしかない。
シリアル市場から朝食市場への視野の転換は、恐らくこの人の考えではない。何故なら、2012年よりずっと前からシリアル=朝食の市場だったのだから。
ビジネス街の大型施設の屋外で、試食会を実施できたのはカルビーという大資本だからこそであって、それもやはりこの人の手腕とは関係がない。
月に2~3件ほど気付いたことがあり次第、メンバーと一緒に解決策を考えるようにしているのは、組織のマネジメントリーダーなら誰でもやっているし、そもそも月に2〜3件というのは一分一秒を争う必要のない、体力のある大企業だからこその少なさだ。
製造原価抑制についても、ギリギリまで考えて最後にはあえて無理を突き通すのは、これまたスケールメリットで優位に立てるメーカーならではの考えでしかない。

つまり、ある程度の経験を積んだ社会人なら誰でもやっていることでしかなくこれの一体何が凄いのかよくわからない、というのが正直な感想だ。

君主論の流行

2006年か2007年頃だったろうか、ニコロ・マキャベッリの『君主論』が流行ったことがあった。
2010年頃には「もしドラ」とか気持ち悪い略し方をされた『もしも〜』という書籍からドラッカーのマネジメント理論が流行った。

さて、10年前に流行に流されて『君主論』を読んだ諸兄は、実際の仕事で活かすことができただろうか?
断言しよう、誰ひとり出来ていない
過言であるなら別に「恐らく誰もできていないだろうと思われる」と言い換えても良いが、どちらにしても『君主論』に何が書かれているかを理解できても、それを現実的に役立たせられた人などいない。
ドラッカーにしても同じことだ。

要するにビジネス書を読んだ人たちは、
「なるほど、リーダーの資質はこうあるべきなのか」
「目標に対する甘えは捨てさせないといけないな」
と思ったかも知れないが、君主論で論じられているようなことが簡単に実行できれば苦労はしない。
容易には実行できないからこそ美しく気高く見えるので、「かくあるべき」という夢想のリーダー像を君主に説き、その夢想度合いが高ければ高いほど「そうなれた自分を夢想させる」ことは容易く、そしてそれに成功したら、職を求めたマキャベッリにとっては目標の9割を達成したと同じなのだ。

ビジネス書や、先に挙げたIT Mediaビジネスなどの記事を読んで感心してしまう人間は、その「ノセられたリーダー」と同じだ。

自らの環境に置き換えることができるか

素晴らしい、理想的なリーダーだったり、哲学を持った仕事の仕方や成功事例は、それが壮大であればあるほど人を夢想させる
が、成功はさせない。

何百年も前の封建国家の事例がそのまま現代に活かせる訳がない。
カルビーのような人も資源もありあまる企業の真似を、中小企業が出来るわけがない。

よく考えてみて欲しいのだが、今月支払う給与の源泉にも困る状態の中小企業で、トップやリーダーが「苦労話で一体感を生み出す」余裕などあろうか?
今まさに、現在進行系で苦労しているのに?
「各部門に足を運んで他部署の社員にも興味を持ってもらい協力の土壌を築く」なんてのんびりやっている時間があるか?
今この時間にもかかり続ける人件費を考慮しないといけないのに?

つまり、すぐに成果が出せなくてもいいから熟慮して組織の風土を醸成させてくれ、なんて言えるのは、会社全体で赤字部門を黒字部門が埋め合わせできる大企業でなければできないことなのだ。
そもそも部門なんてない、あるいは自部門を独立採算させなければならないという状況で働く人間にとっては、この記事を読むことは一文の得にもなりはしない。

ならば「読むことが損」になるのか、と言えば必ずしもそういう訳ではない。
『君主論』だって「ドラッカー」だって、本投稿の元ネタたる記事だって、それをそれとして読むのではなく、読んだことを自分の環境、仕事、会社、人材、経営状態、取引先、資本、設備……と何もかもを自らの環境に置き換えることができる人ならば、非常に有用なものだと思う。

敷衍する能力

中国の古典を読んで、あるいは春秋戦国時代の人物たちの歴史モノを読んで、
「管仲ってすげぇな」
とか、
「楽毅の生き方には憧れるぜ」
とか、
「リーダーは文公のようにならなければ」
とか、そう思うのは簡単だ。
だが、それでは何にもならない。
いやまあ、読書という時間そのものを楽しむという点では有意義な時間の使い方だと思うので、読書のために読書しているというのなら全く文句はない。
が、よく居る、ビジネスに活かすために読んでいる人たちには声を大にして言いたい。

あなた方は管夷吾になれないし、同僚に鮑叔牙はいない。
上長は桓公ではないし、争うべき相手は盧ではない。
そのことを、本当に理解してビジネス書を有難がっているのかどうか。

具象は具体的であればあるほど抽象化することが難しいし、もっと言えば具象を別の具象に敷衍することは抽象化よりも難易度が高い
それができる日本人ビジネスマンは、ほんの一握りしかいないので、こういった記事やビジネス書は日本経済にとって害悪でしかないと思っている。
変革するには教育を根本から見直す必要があるけれども……まあ、文科省の役人も政治家も出来ていないのだから、どだい無理な話か。