そこはかとなく黄昏へ向かう

2005年9月29日

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例えば、現在のインターネットについて「コンピュータ通信の頃は」とか「インターネットの本来のあり方とは」などを言う人がいます。
特に相互リンクや無断リンク禁止などで検索をかけるとかなりの確率でこれらの主張を含むサイトを閲覧することができますが、それに対して「昔のことを持ち出されても困る」「人も制度もモノも、時代に合わせて変わっていくもの」という反論を行うサイトもあります。 どちらが正しいのか、明確な答えを出すことなんてどだい無理な話なのかも知れませんし、私に導き出すことができるはずもありません。

ブログはどうなんでしょうか。
Weblogという言葉の持つ意味が広いこともあってよくわからないままその言葉を使ってきましたが、IT用語辞典には
>日々更新される日記的なWebサイトの総称
とあります。
これも捉えどころのない説明のような気がします。
日記的な、の「的」がある以上は明確な「日記」でなくても良いわけですし、そもそも「日記」じたいが「日々の記録」でしかありません。内容を定義していませんしね。 すると「コミュニティ形成を目的とした呼びかけ」でも「自らの一日を振り返った記録」でも構わないんでしょうか。 前者は外に開くことを目的とし、後者は内に進むことを目的とするという違いはありますが、「ブログ」という言葉の意味からは外れていない気がします。
ただ、「的」の前にある「日記」がその中心に据えられるべきであることは明白ですから、そのことを考えるとやはりコミュニティのためにブログを使うのは本来の使い方から外れている気がします。

情報の共有のためにあるトラックバックを友達作りのきっかけに使ったり(それが本当に可能かどうかは不明ですけれど)、日々の出来事、感 想、主張の記憶を綴っている記事に対して挨拶と自分のブログやサイトの宣伝だけをコメントしたり、そうしてはいけないと言うつもりはありませんが、少なく とも私のサイトやブログはそのような使い方をしたくない、とは思います。

はじめに述べた、インターネット黎明期からこの世界に存在している人たちの中には、もしかしたらこうした現状をインターネットの黄昏と 思っている人もいるかも知れません。 子供から大人まで、インフラ整備と技術の進歩に伴い誰もが使えるようになったインターネットが秩序を失った暴走状態に入っている部分を含んでいることは否 めませんし、そのことで「自由」を「何でもあり」に置き換える人と「秩序」を「枠」に押し込めようとする人、そして調和を図ろうとする人たちが鬩ぎ合って いるのが現実ではないでしょうか。
自由を取り違えれば無法になりますし、秩序が暴走すれば発展を阻害します。 その調和を上手く取ることこそが、使い古された言い回しですが「秩序ある発展」のために必要なことではないかと思います。 可能性を秘めたものは舵取り次第でどちらにも転びます。

ブログがこれからどういった進化を遂げるのか、それとも迷走して拡散していくのかわかりませんが、この「そして有機体は黄昏へ向かう」ではとりあえず、その調和を目指したブログにしたいですね。 読み返し追記していく日記としての性質と、情報の共有をしたいと思ってもらえるような自分以外にも有益になる情報を提供していける、その2点を混在させていくつもりでいます。

願わくば、このブログが黄昏へと向かってしまわないよう……あまり悲観的なことばかりを書かないようにしなきゃいけませんね。楽観的な人間ではないので、難しいかも知れませんが。